日本が目指すべき国家戦略は「難病治療の最後の砦」

鈴木寛 [東京大学慶応義塾大学教授]
今医療の世界で何が起きつつあるのか?
こんにちは。鈴木寛です。
 今回は連載第42回に引き続き、医療イノベーションについてのお話をしたいと思います。
 実は、今の医療の世界は革新的な時期にあります。20年前に起きたIT革命に匹敵、またはそれを上回るインパクトになると思われます。つまり、複雑で高度な情報処理機能をもつコンピュータが、技術の発展によって価格が低廉化し、操作が容易になったことによって、政府や大企業や大きな大学でなくても、一般市民でも手に取れるようになりました。

 今やスマホには40年前のスパコン並みのパワーがあると言えるわけで、これは当時と比べてまさに革命的な現象です。さらにそれを仲介とし、インターネットによって情報が世界中とつながり、かつてない情報社会が到来しました。それと同じことが、今の医療の世界でも起ころうとしているのです。これまでは、ある病気に効く1種類の薬を開発し、それを何百万人という世界中の同じ病気の患者に適用するのが一般的でした。このような薬を開発できるのは、メガファーマーと言われる世界有数の多国籍企業に限られていました。

 しかし、個別化医療再生医療が誕生したことで、万人ではなく個人個人の身体的特徴――その人の遺伝子・ゲノムのタイプに応じた治療ができるようになってきたわけです。情報革命は、コンピュータの利用とインターネット接続を個人が直接行えるようになったことで、「Information Processing」(情報処理・加工)とデジタルコミュニケーションのpersonalize化が進みましたが、今進行している医療革命では「Cell Processing」(細胞加工)と治療法の選択・組み合わせのPersonalize化が進展しています。

再生医療とは、けがや病気で不調になった臓器や組織を、正常細胞からつくり直して失われた機能の一部を補うことを目的とした医療です。個別化医療とは、患者のゲノム(遺伝子情報)を解析して、それぞれのゲノムに応じて、それぞれ個別の治療をしていくというものです。ゲノムの解析はビッグデータの分析なので、ITの活用が欠かせません。

 この2つの医療技術革新によって、その人向けの臓器や組織がつくられるようになり、完全オーダーメイドの治療ができるようになっています。再生医療によって患者は機能不全となった臓器や組織を取り替えたり、補うことができるようになったりします。またゲノム解析によって、特定のパターンのゲノムの患者にのみ劇的に効く薬を開発できたり、患者のゲノムのパターンによって副作用を最小化することで劇的な病状回復ができるようになったりする――。こういう夢のような医療技術が、すでに始まりつつあるわけです。

 まさに、医療のパラダイムシフトが起きようとしているのです。

 医療イノベーションは生死にかかわる変革なわけですから、IT革命を越える大きな影響を社会に与えるでしょう。

 というのも、IT革命の場合、パソコンがなくても生活することは不便ながらもできます。一方医療革命は、その技術がなければ生きていけないという問題なので、無視することはできないからです。そういう医療がこの先20~40年の間に起こってくる。そして今がその入口にあるわけです。
医療革命のドライブには
高額負担可能な富裕層が必要

 そこで、連載第42回から続く格差にもかかわる話になるのですが、そのイノベーションをドライブさせていくには、やはり最初にそれを使う“お金持ち”が必要になるのです。コンピュータも黎明期は数十億円しました。高いスパコンを買う人がいて、高いOSやソフトを買う人がいて、それで段々ボリュームゾーンが広がっていって、コストがダウンしていき、最終的には4万円前後で購入できる最新パソコンが毎年のように発売されているわけです。

 日本の再生医療研究の現状は、臨床研究では心不全や肝硬変、角膜損傷、脳梗塞などを対象とした治療が約70件(2013年4月末現在)、治験では熱傷や軟骨欠損症を対象とした製品開発が8件(2013年4月末現在)実施済み、あるいは実施中であり、このうち2品目が2015年に保険適用されています。

 それが、心不全の患者自身から採取した細胞をシート状に培養し、心臓に貼って働きを改善する「ハートシート」と、骨髄移植後などに見られる合併症「急性移植片対宿主病に対する薬「テムセルHS」です。

 価格は1つ86万8680円で、一連の治療で約1390万円。患者の自己負担はその1~3割となりますので、139~417万円かかる計算になります。この治療で命が救われるのですから、車1台と比べればすごく高いというわけではないですが、平均年収くらいの値段になります(2014年の国税庁民間給与実態統計調査』による平均年収は415万円)。しかし、これも多くの患者が利用できるようになれば、価格も下がってくるでしょう。

 米国立ヒトゲノム研究所によると、ゲノムを解析するのに2001年9月に9530万ドル(約95億3000万円)の費用を要していましたが、2012年10月には6618ドル(約66万1800円)に下がったと報じられました。

 そして今では、インターネットで検索すればいくらでも遺伝子解析のサービスが見つかり、数万円で購入可能になっているのです。ですから、現在の治療費が数百万円かかったとしても、10年後には数万円になっているのかもしれません。
再生医療で最も期待される
創薬プロセスイノベーション

 また、再生医療と言うと、臓器や組織を再生しそれを置き換えるといった治療に目が向きがちで、前段でもそう説明しています。しかし、再生医療技術を活用した治療として、網膜ができました。近々心筋、角膜、脊椎ができてというように、再生可能な臓器パーツがここ10年で着実に増えていきます。しかし、経済コスト面も含めて考えると、再生医療による臓器や組織の置き換えといった治療が多くの症例に対して普及するのは、先のことになるでしょう。

 一方で再生医療技術の適用は、新規療法の確立にとどまりません。ドラッグスクリーニングなどとも言いますが、創薬プロセスの革新に対して、極めて大きな影響を与える可能性が期待されます。むしろ経済産業的、社会的には、こちらのほうがインパクトは大きいと思われます。

 たとえば、ある難病・難治性の疾患の患者由来の細胞を使った臓器や組織をつくることができます、その病気メカニズムがどうなっているのかをより深く解明したり、また新薬の候補がどういう効果や副作用を及ぼすかというチェックを行うことができます。

 現在、動物実験の段階では、多くの場合マウスで研究が行われていますが、この一部が再生医療技術で人工的に作成した人間の臓器・組織を用いることによって、マウスではわからなかった様々な発見も得ることができ、研究開発のパフォーマンスは大幅に上がるでしょう。

 また治験の段階では、現在の薬の開発はあらゆる人に投与される可能性があるという前提で進められています。そのため、効果は抜群でも毒性が強いといった薬はNGとなってしまいます。しかし、ゲノム技術と再生医療技術を活用して、ゲノムのタイプ別に毒性・有効性のチェックができるようになれば、あるゲノム特性を持った患者に特化して、効果が大きく副作用の少ない薬も開発できるようになります。

 すでに数年前から、この種の薬が承認され始めています。逆に、あるゲノムタイプの患者には適用を避けることによって、重篤な副作用の発生を事前に食い止めることもできます。

 となると、化合物の新たな候補が有効性と安全性のチェックを経て市場に出る確率は現在約3万分の1ですが、避けるべき患者群や効果的な患者群が遺伝子レベルで判別できれば、たとえば3000分の1の確率に上がるわけですから、インパクトは大きくなります。

 確率が3万分の1だと、開発費用は巨額になります。数千億円のオーダーになってしまうケースも少なくありません。言い換えると、患者の総数が一定数以上見込めないと、新薬開発に踏み切れないわけです。何万人に1人というような、患者数が少ない難病患者の薬は、なかなか開発のステージに上がれないわけです。しかし、その開発コストが下がれば、難病患者向けの開発研究も進むかもしれないという希望も出てくるわけです。
医療ブランド確立のために
日本を難病と闘う「最後の砦」とせよ

 ここで私が提案するのが、「日本は開発においても治療においても難病・難治性の患者と向き合い続けるという方針を確固として構築し、それによって日本の医療のブランドを確立する」という戦略です。

 幸い日本では、再生医療については研究レベルは世界をリードしています。基礎研究では京都大学のiPS研究所がありますし、臨床応用では大阪大学慶應義塾大学理化学研究所京都大学などから毎年のように素晴らしい成果が出てくるでしょう。個別化医療についても、東北メディカル・メガバンクを運営する東北大学、ゲノム解読の国際プロジェクトのときから長年の実績を有し、情報科学についても高い実力を有する東京大学などがあります。

 そこで、たとえば世界のメガファーマーが、採算性やとりわけ売上額が彼らの規模からすると大きくはないために研究開発を後回しにしている難病治療に対して、日本では昨年できた日本医療研究開発機構(AMED)が難病研究重視の方針をすでに打ち出していますので、AMEDからの助成金なども活用しながら、大学や公的研究機関が積極的に難病研究をリードすることができます。

 しかも、再生医療に関する薬事審査手続きが変わり、再生医療については第二相治験をクリアすれば、最もコストがかかる第三相試験を経る前に仮承認が降りるようになっていますので、これまでより早いタイミングで患者さんへの投与を始めることができるようになっており、巨額の利益を狙えるわけではありませんが、日本であれば、十分な採算性を確保することができるようなっています。
シングルヒットや二塁打を狙う
医療革命のエコシステムを

 ホームラン狙いではなく、シングルヒットや二塁打を連打していくような、医療イノベーションエコシステムを日本では目指していくのです。

 国費助成と規制緩和もうまく活用しながら、世界中の誰よりも日本が難病治療の研究開発に率先して向き合い続ける。そういうナショナルイメージを確立すれば、日本のみならず世界中から難病患者が最後の光明を求めて日本に来るようになるし、日本を頼るようになるでしょう。

 これまでも中東の患者で、アメリカの病院では治らなかった心臓患者を日本の大阪大学病院が治癒させ、その国の王族がわざわざお礼を言いに直接訪日するといったことが起きています。

 世界中の難病で困っている人たちの「最後の砦=日本」を目指す。このことによって、日本が国際社会で名誉ある地位を占めていく。こうしたイメージは、技術の国、ハイテクの国といったイメージ以上に、世界中に強く訴えるものになるでしょうし、最大の国家安全保障戦略にもなるのではないでしょうか。